内向型は生まれつきなのか

時間は午前二時。

Aさんはどうしても寝付けず、いっそ死んでしまいたいと思っていた。

大切な講演を翌日に控えて、頭のなかは不安と心配でいっぱいだった。

もし緊張で口が渇きすぎて、しゃべれなくなってしまったら、どうしよう?

もし聴いている人たちを退屈させてしまったら?

もし、演壇上で気分が悪くなってしまったら?

ボーイフレンド(現在では夫)のBさんは、Aさんが眠れずに寝返りを打ってばかりいるのに気付き、そのあまりの憔悴ぶりに驚いた。

国連平和維持活動に関わっていたBさんは、ソマリアで待ち伏せ攻撃に遭った経験があるのだが、そのとき彼が感じた恐怖よりも、きっとAさんがその晩感じていた恐怖のほうが強かったに違いない。

「なにか楽しいことを考えなさい」彼はそう言って額を撫でてくれた。

天井をじっと見ていると、涙が溢れてきた。

楽しいことって、どんな?

演壇とマイクばかりが浮かんできて、楽しいことなどなにも考えられない。

「十数億人もいる中国人はみんな、きみがどんなスピーチをしようと、これっぽっちも関心がないと思うよ」Bさんはなんとか落ち着かせようとジョークを言った。

少しだけ気が楽になったが、効果はほんの5秒間ほどしか続かなかった。

また寝返りを打って、目覚まし時計を見た。

時間はすでに6時半。

少なくとも一番つらい時間はもう過ぎた。

講演さえ切り抜ければ、明日はすっかり自由の身だ。

だが、その前に、なんとか本番を乗り越えなければ。

Aさんは暗い気分で身支度して、コートを着た。

ベイリーズのアイリッシュクリームを入れたスポーツ用ウォーターボトルを、Bさんが手渡してくれた。

お酒はあまり飲まないが、このアイルランド産のリキュールはチョコミルクシェイクの味がするので気に入っている。

Bさんは「会場に立つ十五分前に飲みなさい」と言って、さよならのキスをした。

エレベーターで一階へおりて、迎えの車に乗り込み、ニュージャージー州の郊外にある大企業の本社へ向かった。

車に乗っているあいだずっと、いったいどうして自分をこんな破目に追い込んでしまったのかと後悔していた。

Aさんはウォール街の弁護士という仕事を辞めて、自分のコンサルタント事務所を立ち上げたばかりだった。

たいていの場合一対一もしくは少人数で働いていたので、居心地がよかった。

だが、大手メディア企業の法律顧問をしている知人から重役陣を対象にセミナーをしてくれと依頼されて、今となってはいったいどうしてなのか理由は見当もつかないが承知してしまったのだ-それも喜んで!

目的地へ向かいながら、ここでちょっとした地震かなにかが起きて、セミナーが中止にならないものかと心の奥で祈っていた。

そして、そんな罰当たりなことを祈ったことに罪の意識を感じた。

先方のオフィスに到着して車から降り、自信満々の溌剌としたコンサルタントに見えるように背筋をぐっと伸ばした。

担当者が会場へ案内してくれた。

Aさんはトイレの場所を尋ねて、個室に入ると、ウォーターボトルの中身をごくりと飲んだ。

立ったまま、アルコールが全身に回って魔法がかかるのを待った。

だが、なにも起こらない―まだ怖くてたまらなかった。

もう一口飲んだほうがいいのかも。

いいえ、セミナーの開始時間まであと15分しかない―もし、息が酒臭いと気づかれたらどうしよう?

口紅を塗り直して、会場へ戻り、演台の上にメモカードを並べていると、見るからに重要な地位にある人々が会場を埋めた。

たとえなにがあろうと、とにかくこの場で吐いてはいけないのだと、自分に言いきかせた。

重役たちのなかには、こちらを見つめている人もいたが、大半の視線は手元のスマートフォンに釘づけだった。

いったいどうしたら、急ぎの用件を発信している彼らの注意をこちらへ向けることができるのだろう?

セミナーなんて二度としない、そのときAさんは心に誓った。

内向型か外向型かを分ける原因

さて、その後、Aさんは数え切れないほどたくさんのセミナーで話をした。

恐怖心を完全に克服してはいないが、長年の経験から、人前で話をしなければならないときに役に立つ心得を発見したのだ。

それはさておき、絶望的な恐怖についてお話ししたのは、それが内向性をめぐる根本的な疑問に関連しているからだ。

人前で話しをすることに対して恐怖を感じることは、静かで知的なものを愛する性格と、どこか深い部分でつながっているような気がする。

はたして、本当にそうなのか?

もしそうだとしたら、どのようにつながっているのだろう?

「育ち」の結果、つまり育った環境や教育の結果だろうか?

Aさんの両親は物静かで思慮深いタイプだ。

母はAさんと同じく人前で話すのが嫌いだった。

とすれば、「天性」のもの、つまりは遺伝子のなせる業なのだろうか?

Aさんは成人してからずっと、この疑問を考えてきた。

ありがたいことに、ハーバード大学の科学者たちも同じ疑問を持ち、人間の脳を研究し、個人の性格の生物学的起源を発見しようと試みてきたのだ。

20世紀の偉大な発達心理学者であるジェローム・ケーガン教授は、そうした科学者のひとりだ。

ケーガンは子どもの感情や認知能力の発達についての研究に人生を捧げてきた。

一連の革新的な長期的研究を重ねて、ケーガンは子どもたちを乳児期から思春期まで追跡調査し、彼らの生理機能や性格の変化を記録した。

こうした長期的研究は手間だけでなく費用もかかるために、ほとんど類を見ない。

だが、その成果は大きく、ケーガンの研究はまさにそうだった。

その一環として1989年に開始され現在も継続中の研究で、ケーガンらの研究チームはハーバード大学<児童発達研究所>に生後四ヵ月の乳児500人を集め、45分間かけて観察すれば、一人ひとりの赤ん坊が将来内向的に育つか外向的に育つかを予測できるとした。

もし、あなたが生後四ヵ月の赤ん坊の親ならば、それはなんとも大胆な発言に思えるはずだ。

だが、ケーガンは長年にわたって気質の研究をしており、ある理論を持っていた。

ケーガンらは、生後四ヵ月の赤ん坊に慎重に選んだいくつかの新しい体験をさせた。

録音した声を聞かせたり、色鮮やかなモビールを見せたり、先端をアルコールに浸した綿棒を嗅がせたりしたのだ。

それらの未知の体験に対して、赤ん坊たちはそれぞれに反応した。

全体の約20%は元気よく泣いて、手足をばたつかせた。

ケーガンはこのグループを「高反応」と呼んだ。

約40%は静かで落ち着いたままで、時々手足を動かすものの、さほど大きな動きではなかった。

ケーガンはこのグループを「低反応」と呼んだ。

残りの約40%は「高反応」と「低反応」との中間だった。

ケーガンは物静かな10代に成長するのは「高反応」グループの赤ん坊だと予測した。

その後、赤ん坊たちは2歳、4歳、7歳、11歳の時点でケーガンの研究室に呼ばれて、見知らぬ人やはじめて体験する事柄に対する反応をテストされた。

2歳のときには、ガスマスクをかぶって白衣を着た女性やピエロの恰好をした男性や、無線で動くロボットに引き合わされた。

7歳のときには、初対面の子どもと遊ぶよう指示された。

11歳のときには、見知らぬ大人から日常生活についてあれこれ質問された。

ケーガンらはこうした外部からの刺激に対して子どもがどう反応するかを観察し、ボディランゲージを解読するとともに、自発的に笑ったり話したり笑みを浮かべたりする様子を記録した。

さらに、両親と面接して彼らのふだんの様子について尋ねた―少数の親しい友達とだけ遊ぶのが好きか、あるいは大勢で遊ぶのが好きか?知らない場所を訪ねるのが好きか?冒険派かそれとも慎重派か?自分のことを内気だと思っているか、それとも大胆だと思っているか?

子どもたちの多くが、ケーガンが予測したとおりに成長した。

モビールを見て盛大に手足を動かして騒いだ20%の「高反応」の赤ん坊の多くは、思慮深く慎重な性格に成長した。

激しく反応しなかった「低反応」の赤ん坊は、大らかで自信家の性格に成長している例が多かった。

言い換えれば、「高反応」は内向的な性格と、「低反応」は外向的な性格と一致する傾向が見られた。

ケーガンは1998年の著書『ガレノスの予言』のなかで、「カール・ユングが75年以上も前に書いた内向型と外向型についての記述は、われわれの高反応・低反応の子どもたちに驚くほどぴたりとあてはまる」と書いた。

ケーガンは二人の10代の少年を例に挙げている。

内向的なトムと外向的なラルフ、この二人は驚くほど違う。

トムはとても内気で、成績優秀、慎重で物静か、女友達や両親にやさしく、心配性で、ひとりで勉強したり考え事をしたりするのが好きだ。

将来は科学者になりたいと思っている。

「内気な子ども時代を送った内向型の著名人と同じく・・・彼は”心の人生”を選んだんのだ」と、ケーガンはトムを詩人で劇作家のT・S・エリオットや数学者で哲学者のアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドになぞらえて書いた。

ラルフはまったく対照的で、ざっくばらんな自信家だ。

ケーガンの研究チームの一員である25歳も年上の専門家に対しても、まるで友達どうしのように話す。

頭は非常にいいのだが、勉強をサボったせいで英語と科学の授業で落第点を取った。

それでも、ラルフはまったく気にしていない。

自分自身の欠点を明るく認める。

心理学者はしばしば、「気質」と「性格」との違いについて論じる。

気質とは生まれ持ったもので、生物学的な基盤を持った行動や感情のパターンであり、乳児や幼児の頃にも観察できる。

それに対して、性格とは後天的に獲得したさまざまな要素が複雑に混じり合ってつくられる。

気質が土台であり、性格は建物であると表現する人もいる。

ケーガンの研究は、トムとラルフの例のように、乳児の気質と思春期の性格とを結びつけるのを助ける働きをするものだ。

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内向型と外向型はどこが違う?
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高反応な子どもと低反応な子ども

ところで、いったいなぜケーガンは、刺激に対して激しく反応した赤ん坊がトムのように慎重で内省的に育ち、激しい反応を示さなかった赤ん坊がラルフのように外向的に育つ可能性が高いとわかったのだろうか?

その答えは生理学にある。

ケーガンの研究チームは、子どもたちに刺激を与える際に、心拍や血圧や指先の温度や、神経系のさまざまな数値の変化を測定した。

それが脳内の扁桃体と呼ばれる器官によってコントロールされると信じられているからだ。

扁桃体は大脳辺縁系の奥に位置し、ラットなど原始的な動物にもある原始的な脳だ。

「感情脳」とも呼ばれ、食欲や性欲や恐怖といった根源的な本能の多くを司っている。

扁桃体は脳内の感情スイッチの役割を担っており、外界からの刺激を受けるとそれを脳の他の部分へ伝え、神経系に指令を出す。

その機能のひとつは、外界の新しいものや脅威になるものの存在―たとえば、飛んでくるフリスビーや、シューッと音を発して威嚇するヘビ―を即座に感知して、瞬時に闘争―逃走反応の引き金を引くことだ。

フリスビーが顔面を直撃しそうに見えたとき、屈んで避けなさいと命じるのは扁桃体だ。

ガラガラヘビが鎌首をもたげて威嚇してきたとき、逃げなさいと指示するのも同じだ。

ケーガンはこんな仮説を立てた―生まれつき扁桃体が興奮しやすい乳児は外界からの刺激に対して大きく反応し、成長すると、初対面の人間に対して用心深く接するようになる。

そして、この仮説は立証された。

つまり、生後四ヵ月の乳児が刺激に対してまるでパンクロッカーのように大きく手足を振って反応したのは、外向型に生まれ付いたせいではなく、彼らが「高反応」であり、視覚や聴覚や嗅覚への刺激に強く反応したせいだったのだ。

刺激にあまり反応しなかった乳児は内向型だからではなく、まったく逆に、刺激に動じない神経系を備えているからなのだ。

扁桃体の反応が大きいほど、心拍数が多く、瞳孔が広がり、声帯が緊張し、唾液中のコルチゾール(ストレスホルモン)値が高くなる。

つまり、刺激に対してより強い苛立ちを感じるわけだ。

高反応の子どもたちは、成長するにつれて、生まれてはじめて遊園地へ行くとか、幼稚園へ通いだして知らない大勢の子どもたちと触れ合うとか、さまざまな形で新しい刺激を受ける。

私たちは初対面の人に対する子どもたちの反応に目を向けがちだ。

投稿初日にどうふるまったか?

知らない子がたくさん集まった誕生会で、あの子はとまどっていたか?と。

だが、私たちが本当に目にしているのは、他人に対するふるまいだけではなく、経験のない物事全般に対する子どもの反応なのだ。

おそらく、内向性や外向性を決める要素は、反応の高低だけではないだろう。

内向型でも高反応でない人はたくさんいるし、割合は少ないものの、高反応の子どもが外向型に成長することもある。

それでも、ケーガンの数十年かけた一連の発見は、性格タイプを理解するうえで劇的な変革をもたらした―私たちの価値判断をも含めて。

外向型は「社交的」で他人を思いやり、内向型は他人と触れ合うのを好まない「人間嫌い」だという説がある。

しかし、ケーガンの研究では、乳児は人間に対して反応しているのではない。

アルコールを含ませた綿棒に反応している(あるいは反応していない)のだ。

破裂した風船に反応して手足を動かす(あるいは動かさない)のだ。

高反応な赤ん坊は人間嫌いではなく、たんに刺激に敏感なのだ。

じつのところ、高反応の子どもたちの神経系は、恐ろしいものだけでなく、すべてのものに敏感に気付くように結びついているようだ。

高反応の子どもは人間に対しても事物に対しても「注意を喚起」する。

彼らは決定をくだす前に選択肢を比較するために、文字通り目をより多く動かす。

その様子はまるで、周囲の世界に関する情報を、意図的にせよそうでないにせよ、ひどく真剣に処理しているように見える。

ケーガンは初期の研究で、小学一年生の子どもたちに絵合わせゲームをさせた。

まずクマが椅子に座っているカードを一枚見せてから、つぎに似たような絵柄のカードを六枚見せる。

そのうちの一枚だけが、先に見せたカードとまったく同じ絵柄だ。

高反応の子どもは他の子どもよりも時間をかけて六枚のカード全部に目を通し、正しいカードを選ぶ確率が高かった。

単語ゲームをさせても、高反応の慎重な子どもたちは、衝動的な子どもたちよりも正答率が高かった。

高反応の子どもはまた、自分が気づいたことについて深く考えたり感じたりして、あらゆる日常的な体験から微妙なニュアンスを感じとる傾向がある。

このことはさまざまな形で現れる。

人との関係に関心がある子どもならば、他人を観察していろいろ考えることに長い時間をかけるかもしれない―J君はどうして玩具を貸してくれなかったのだろう?N君がぶつかったときにMさんはなんであんなに怒ったのだろう?といった具合に。

たとえば、パズルを解いたり絵を描いたり砂の城をつくったり、なにかに特別な関心を持てば、並外れた集中力で取り組むことが多い。

高反応の幼児が他の子の玩具をうっかり壊してしまったら、罪の意識と悲しみが混じった感情を低反応の子どもよりも強く抱くと、研究は示している。

もちろん、どんな子どもも周囲のさまざまな事柄に気付き、それなりの感情を抱くが、高反応の子どもは物事をよりしっかり見て、より深く感じる。

科学ジャーナリストのウィニフレッド・ギャラガーは、みんながひとつの玩具を欲しがったらどうしたらいいかと七歳の高反応の子どもに尋ねれば、「みんなの名前を書いて、アルファベット順に使えばいいよ」というような高度な答えが返ってくることが多いと書いている。

「彼らにとって、理論を実践に適用することは難しい。なぜなら、彼らの敏感な性分や複雑なやり方は学校内の雑多な状況にはそぐわないからだ」とギャラガーは書いている。

とはいえ、こうした特質ー警戒心、微妙なニュアンスへの敏感さ、感情の複雑さ―は、過小評価されているパワーなのだ。

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生まれつきか教育環境か

ケーガンは高反応が内向性の生物学的基盤のひとつであることを示す証拠を入念に記録しているが、彼の発見の数々に説得力があるのは、その内容が私たちが以前から感じてきたことを裏付けているからでもある。

ケーガンの研究は、大胆にも文化的神話の領域にまで踏み込んでいる。

たとえば、彼は自分のデータにもとづいて、高反応は青い目やアレルギーや花粉症といった身体的特質と関連していると信じている。

また、高反応の男性はそうでない男性よりも、痩せた体つきで顔がほっそりしていることが多いとも信じている。

そうした結論は推論的であり、頭蓋骨の形から人間の魂を知ろうとする19世紀の占いを思い起こさせる。

だが、結果が正しかろうと誤っていようと、小説に登場する物静かで内気で知性的な人物がまさにそういう姿形で描かれるのは、じつに興味深い。

あたかも、そうした生理学的傾向が無意識に私たちの文化の深層に埋め込まれているかのようだ。

ディズニー映画を例にとってみよう。

アニメ制作者たちがシンデレラやピノキオやドーピーといった繊細なキャラクターを青い目で、シンデレラの姉たちやグランピーやピーターパンといった押しの強いキャラクターを黒っぽい目で描くのは、彼らが無意識のうちに高反応について理解しているからだと、ケーガンらは推測する。

本やハリウッド映画やテレビドラマでも、同じような傾向が見られる。

さらにケーガンは、白い肌で青い目の女性を好む男性は、そういう女性に無意識に繊細さを感じているのだと推測する。

外向性・内向性は生理学的な、ひいては遺伝的な要素にもとづいているという推論を支持する研究はほかにもある。

「生まれつきか養育環境か」の問題を解くもっとも一般的な方法のひとつは、一卵性双生児と二卵性双生児の性格特性を比較することだ。

一卵性双生児はひとつの受精卵から育つので同じ遺伝子を持っているが、二卵性の場合は偶然に排出された二つの卵子が受精するので、遺伝子は平均で50%しか共通していない。

だから、一卵性と二卵性の双生児の内向性と外向性の度合いを比較して、もし一卵性のほうが二卵性よりも酷似していれば、遺伝要因が働いているということになる。

実際、数々の研究で、たとえ双生児が別々の環境で育っても、そういう結果が出ている。

研究はどれも完璧ではないが、結果は一貫して、内向性・外向性は調和性や勤勉性など他の主要な特質と同じく、40%から50%は遺伝によるというものだ。

だが、内向性についての生物学的説明は完全に満足できるものだろうか。

ケーガンの『ガレノスの予言』には、友人たちが、家族が、私自身が―それどころかすべての人間が―「穏やかな神経系」対「高反応の神経系」というプリズムを通してきちんと整理されていたのだ。

まるで、人間の性格の謎をめぐる数世紀にもわたる哲学的な問いが、科学的明晰さによって解明された輝かしい瞬間のようである。

そこには「生まれつきか養育環境か」の問いに対する明快な答えがあった―私たちは定められた気質を備えて生まれ、それが大人になってからの性格を強力に形づくるのだ、と。

だが、そんなにシンプルな答えで本当にいいのか。

内向性や外向性は持って生まれた神経系のせいにしてしまえるのだろうか。

1954年に研究を開始した当初、ケーガンは強固な「育ち派」として科学界の定説に歩調を合わせていた。

当時、生まれつきの気質という考えは、ナチの優生学や白人至上主義を連想させるとして、政治的にも認められなかった。

それに対して、子どもは白紙で生まれてくるという考えは民主主義国家にアピールするものだった。

だが、ケーガンは途中で考えを変えた。

「データからすれば、どう否定しようと努力しても、気質は考えていた以上に強力だった」と現在の彼は言う。

1988年『サイエンス』誌に発表した高反応の子どもに関する論文が、生まれ持った気質に関する考えを正当化するのに役立ったのは、ひとつには「育ち派」としての彼の評判が非常に高かったおかげだった。

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どうして人前で話すことが怖いのか

ハーバード大学のウィリアム・ジェイムズ・ホールの自室へ招き入れてくれたケーガンは、心理学者Aさんが腰かけるのをじっと見つめていた。

その視線は厳しくはないが、洞察力に満ちている印象だった。

ケーガンとはコミックに出てくるような、白衣を着て試験管を手にした穏やかな人物を想像していた。

ところが、現実はまったく違っていた。

ケーガンは想像していたような物腰の柔らかい老教授ではなかった。

ヒューマニズムに溢れた本を書く科学者であり、幼い頃は心配性で怖がりだったというケーガンは、周囲を威圧するようなオーラを放っていた。

ケーガンのもとを訪ねた心理学者は、知り合いの「エンジンがかかりにくい」少女の話に触れた。

彼女は初対面の人に挨拶するよりも観察する。

家族と一緒に毎週海へ行くのだが、彼女だけがなかなか足先を海水につけようとしない。

典型的な高反応ではありませんか、とケーガンに訊いてみた。

「ノー」ケーガンは否定した。

「どんな行動にも複数の理由があるものです。

それを忘れてはいけない!統計を取ってみれば、エンジンがかかりにくい子どもは高反応の例が多いでしょうが、生まれてから三年半の体験が大きく影響している場合もあるのです!ライターやセラピストが話すとき、一対一の関連で物事を判断したがります。

つまり、ひとつの行動にひとつの原因、というわけです。

だが、重要なことを忘れないでください。

エンジンがかかりにくいとか、内気だとか、内省的だとかいう性質が生じるには、さまざまなルートがあるのです。」

ケーガンは、神経系との関連の有無にかかわらず、内向的な性格をもたらしうる環境因子をつぎつぎにあげた。

子どもは頭のなかで新しいアイデアを考えて、そのせいで時間がかかっているのかもしれない。

あるいは、健康上の問題が心のうちに影響を及ぼしているのかもしれない。

人前で話すことに対して抱く恐怖感もまた、同じように複雑なのかもしれない。

人前で話すのが怖いのは、高反応の内向型だからだろうか。

たぶん、そうではないだろう。

高反応でも、人前で話したり演じたりするのが好きな人もいるし、外向型なのにスピーチ嫌いだという人も多い。

スピーチは怖いもの第一位で、死に対する恐怖をうわまわっている。

スピーチ恐怖症の原因はいろいろあり、たとえば幼時体験があげられるが、その内容は人それぞれであり、生まれつきの気質ではない。

じつのところ、スピーチ恐怖症は人間の本質に関わるもので、神経系が高反応に生まれついた人々だけにかぎったものではないのかもしれない。

社会生物学者のE・O・ウィルソンの著作にもとづいた、こんな理論がある―私たちの祖先が草原で生活していた当時、見つめられることの意味はひとつだけだった。

捕食獣に狙われている、ということだ。

食われてしまうと危険を感じたときに、私たちは背筋をぴんと伸ばして自信たっぷりに長々としゃべるだろうか。

とんでもない。

逃げ出すに決まっている。

つまり、演壇にあがって聴衆の視線が集中すると、私たちの本能はそれを捕食獣の目のぎらつきと錯覚して、演壇から逃げたくなってしまいかねない。

だが、聴衆のほうは、私たちが落ち着いてその場にじっとしているものと期待している。

このような生物学と礼儀との衝突は、人前で話すことが恐ろしく感じられる理由のひとつなのだろう。

リラックスさせようとして、聴衆がみんな裸だと思えと言う人がいるが、そんな助言は恐怖にかられた話者にはまったく役に立たない。

なぜなら、裸だろうと優雅に着飾っていようと、ライオンは恐ろしいのだから。

だが、たとえすべての人が聴衆を捕食獣だと思ってしまいがちだとしても、闘争―逃走反応を起こすきっかけは人さまざまだ。

どれくらい危険な視線を感じたら、相手が飛びかかってくると思うのだろうか?壇上にあがる前から、もうすでに逃げ出したくなるのか、それとも、急所を突いた質問をされるとアドレナリンが放出されるのか。

扁桃体の感受性が高いと、話している最中に聴衆が顔をしかめたり欠伸をしたりスマートフォンをチェックしたりすることに敏感に反応する、というのは納得できるだろう。

そして、実際の研究によれば、内向型は外向型よりも人前で話すのを恐れる傾向がずっと高い。

ケーガンがこんな話をした。

あるとき、同僚の科学者が学会ですばらしい講演をした。

その後一緒にランチを食べている最中に、その科学者が、自分は毎月のように講演をしているのだが、檀上での堂々たる姿とはうらはらに、いつも怖くてたまらなくなるのだと打ち明けた。

そして、じつはケーガンの本を読んで、まさに目からうろこが落ちたような気持ちになったと語った。

「きみは僕の人生を変えたんだ。これまでずっと母のせいだと思っていたが、自分は高反応なのだと気づいたのだよ」と彼はケーガンに言ったそうだ。

はたして内向型の人は、両親の高反応を受け継いだせいか、彼らの行動を真似たせいか、それとも両方なのか。

双生児を対象にした遺伝研究では、内向型となるか外向型となるかは40%から50%が遺伝だったことを思い出そう。

これはつまり、ある集団のなかで平均して半数が、遺伝子によって内向型になるか外向型になるかが決定されるということだ。

数多くの遺伝子が働いていることが状況をさらに複雑にしており、ケーガンが提唱する高反応という枠組みも、内向性をもたらす数多い生理学的原因のひとつなのだろう。

さらに言えば、平均とはなかなか扱いが難しいものだ。

50%の確率で遺伝するということが、必ずしも内向性が両親から50%受け継がれていることや、親友とのあいだにある外向性の違いの半分が遺伝であることを、必ずしも意味しているわけではない。

その人の内向性は100%遺伝子から来ているのかもしれないし、そうでないかもしれない―あるいは、遺伝子と経験がなんらかの割合で混じり合っているのかもしれない。

それが生まれつきのせいか養育環境のせいかを問うことは、吹雪は気温のせいか湿度のせいかと問うようなものだとケーガンは言う。

両者が精妙に影響し合って、できているのだ。

となれば、性格の何%が生まれ持ったもので、何%が育ちのせいなのかという問いよりも、生まれつきの気質は環境や自由意志とどのように影響し合うのかという問いのほうが重要なのかもしれない。

気質とは、どの程度逃れられない運命なのか。

一方で、遺伝子と環境の理論によれば、特定の性質を持つ人は、その性質を強化する人生体験を求める傾向がある。

たとえば、きわめて低反応の子どもは、よちよち歩きの頃から危険を招きやすいので、成長すると大きな危険にも動じなくなる。

彼らは「いくつもの壁をよじ登り、それによって感作され、屋根に登るのだ」と心理学者のデヴィッド・リッケンが『アトランティック』誌に書いている。

「外向型の子どもは、ほかの子どもがしないような体験をたくさんする。

はじめて音速を超えた名パイロットであるチャック・イェーガーなら、爆撃機の腹からロケットに飛び移ることだってできただろう。

それはたんに彼が私やあなたと違う遺伝子を持っていたからではなく、生まれてからの数十年間で、木登りにはじまる数々の体験を重ねて、危険や興奮のレベルが上がっていったからだ」というのだ。

逆に、高反応の子どもがアーティストやライターや科学者や思想家になることが比較的多いのは、新しいことを嫌って、自分の頭のなかの慣れ親しんだ―そして想像力に富んだ―環境で過ごそうとするからかもしれない。

「大学には内向的な人間がたくさんいる」とミシガン大学<子どもと家族のためのセンター>の所長であるジェリー・ミラーは言う。

「大学教授はまさにその典型だ。

彼らは本を読むのが好きだ。

なぜなら、彼らにとって思考や知識ほどわくわくさせられるものはないからだ。

このことは、ひとつには彼らが成長期にどんなふうに時間を使ってきたかと関連している。

もし戸外でなにかを追いかけていれば、読書したり勉強したりする時間はない。

人生の時間はかぎられている」

とはいえ、どんな気質でも、それが生み出す結果は幅広い。

低反応で外向的な子どもは、安全な環境で注意深い家族に慈しんで育てられれば、たとえばリチャード・ブランソンやオプラ・ウィンフリーのような、大らかな性格のエネルギッシュな成功者に成長しうる。

だが、親にネグレクトされたり、劣悪な環境で生活させられたりして育てば、非行に走ったり犯罪に手を染めたりする可能性があると言う心理学者もいる。

リッケンはサイコパスとヒーローは「同じ遺伝子の幹の小枝」だと表現した。

子どもが正邪の感覚を獲得するメカニズムを考えてみよう。

子どもはなにか不適切なことをして親などから叱られることによって良心を築く、と多くの心理学者が信じている。

自分のしたことを否定されることで不安になり、不安は不快なので、そうした非社会的な行動を避けることを学ぶのだ。

これは、親の行動基準の内在化として知られ、その核心には不安がある。

だが、極端に低反応な子どものように、そうした不安を感じにくい場合はどうだろう?

そういう子どもを導く最良の方法は、前向きなロールモデルを与えて、建設的な行動へ心を向けてやることだ。

あるアイスホッケーチームで低反応の少年が活躍し、肩で相手チームの選手を押しのけて(これは反則ではない)果敢に攻撃することでチームメイトから高く評価されていた。

だが、もし行き過ぎて、肘で相手選手を突いて転倒させ、脳震盪でも起こさせたら、彼はペナルティボックス入りだ。

そして、時間をかけて、リスクを冒すことの危険性を学ぶのだ。

では、この少年が危険な地域に住んでいて、しかも自分の無謀さを学べるようなスポーツチームなどがないとしたら、どうだろう?

非行に走ってしまう可能性が高いのは目に見えている。

不幸な条件下に置かれて問題を抱えるようになってしまう子どもは、貧困やネグレクトだけでなく、溢れるエネルギーを健全に吐き出す道を奪われていることによっても苦しめられているのだろう。

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高反応であるとは

極端に高反応の子どもたちの運命は周囲の環境によっても影響される。

デヴィッド・ドブスが『アトランティック』誌に発表した論文で主張した「ランの花」仮説によれば、彼らは標準的な子どもたちよりも強く周囲から影響される。

この理論によれば、大半の子供たちはタンポポの花のように、どんな環境でもたくましく成長する。

だが、そうでない子どもたちは、ケーガンが研究した高反応のタイプを含めて、ランの花のような存在だ。

ランの花は枯れやすいが、適切な状況のもとでは強く育ち、みごとな花を咲かせる。

この考えの中心的な提唱者で、子育てを研究しているロンドン大学の心理学教授ジェイ・ベルスキーによれば、そういう子どもは標準的な子どもとくらべると、逆境に置かれると悪影響を受けやすいが、よい環境で育てられることで受ける恩恵も大きいという。

つまり、ランの花タイプの子どもは、よきにつけ悪しきにつけ、あらゆる体験から影響を受けやすいのだ。

科学者たちは高反応の気質には危険因子がつきものだと知っていた。

そういう子どもは、両親の不和や死、虐待などに対して、非常に脆弱だ。

そんな体験をすると、うつ状態に陥ったり、不安に襲われたり、極端に内気になったりする傾向が標準的な子どもよりも強い。

それどころか、ケーガンが高反応とする子どもたちの四分の一は、程度の差こそあるものの、強い不安を主訴とする「社交不安障害」と呼ばれる状態に悩まされている。

そうした危険因子にはよい面があるということに、科学者たちは最近になって気づいた。

すなわち、感受性の鋭さと強い心は表裏一体なのだ。

高反応の子どもは、安定した家庭環境できちんと育てられれば、低反応の子どもよりも感情的問題を抱えることが少なく、社会技能にもすぐれる傾向があると、研究は示している。

共感する力が強く、思いやりがあり、協力的なのだ。

他人と協力して働くのも得意だ。

彼らは親切で誠実、そして、残酷さや不正や無責任に心を痛めやすい。

大切だと思ったことは成功させる。

学級委員や劇の主役に必ずしもなりたがるとはかぎらないけれど、なかにはそう思う子どももいる。

「クラスのリーダーになるのが大切だと思う子もいれば、よい成績をとったり仲間から好かれたりすることが大切だと思う子どももいる」とベルスキーは語った。

高反応の気質が持つよい面についての研究は、最近になってようやくまとめられてきた。

ドブスの『アトランティック』誌の論文には、アカゲザルの社会に関する興味深い発見が報告されている。

アカゲザルはDNAの95%が人間と一致しており、人間と似た複雑な社会構造を持っている。

アカゲザルでも人間でも、セロトニントランスポーター遺伝子(SERT)あるいは5-HTTLPRと呼ばれる遺伝子が、気分に影響をもたらす神経伝達物質であるセロトニンの量を調節している。

このSERTは長さによって、短い型と長い型に分かれている。

そして、短い型の遺伝子は、高反応や内向性と関連しているだけでなく、うつ状態を引き起こして苦しい人生を送るリスクを高めると考えられている。

ある実験で、アカゲザルの赤ん坊を母親から離して育てたところ、短い型の遺伝子を持つサルは長い型の遺伝子を持つアカゲザルよりもセロトニンの生産効率が悪くなった(うつ状態や不安の危険因子)。

だが、同等の安全な環境で母親に育てられた場合、短い型の遺伝子を持つサルは、つがいの相手を見つけたり、仲間をつくったり、衝突を処理したりなど社会的な働きをするうえで、長いほうの遺伝子を持つアカゲザルよりもすぐれていた。

そして、彼らは群れのリーダーになることが多かった。

セロトニンの生産もより効率的だった。

これらの研究を実施した科学者のスティーブン・スミオは、高反応のアカゲザルがすぐれた能力を発揮したのは、自分から行動するよりも群れの仲間たちの行動を長時間にわたって観察して、社会的な力学の法則を身につけたせいだと推論する。

この仮説は、高反応の子どもの親から見れば、わが子が少し離れた場所から仲間たちのやりとりを眺めてから、ようやくじわじわとなかへ入り込むのと似ている。

人間を対象にした実験では、ストレスの多い家庭環境におかれた場合、短いSERTを持つ思春期の少女たちは、長い型のSERTを持つ少女たちよりもうつ状態になる確率が20%高かったが、安定した家庭環境にある場合には、うつ状態になる確率は25%低かった。

同じように、短い型の遺伝子を持つ大人は、ストレスの多い一日を送った夜には、長い型の遺伝子の持ち主よりも不安を感じることが多いが、平穏に過ぎた日の夜にはより少なかった。

道徳的な価値葛藤に直面すると、高反応の四歳児は他の子どもたちよりも向社会的な反応を示す―だが、この違いは、5歳になると、母親に穏やかで厳しくない躾をされた子どもだけに残る。

支援してもらえる環境で育った高反応の子どもは、他の子どもよりも風邪や呼吸器疾患にかかりにくいが、ストレスの多い環境で育つと、そうした病気にかかりやすくなる。

短い型のSERTはまた、広範囲な認知行動においてパフォーマンスの高さに結びついている。

これらは驚くべき発見だが、最近になってようやく注目されはじめた。

それはある意味で当然なのかもしれない。

心理学者は心を癒やすことを目的としているので、研究の題材はなんらかの問題や病状に集中する。

「船乗りは船を沈没の危険にさらす氷山をさがして水平線ばかりに目を凝らしているせいで、高い氷山のてっぺんに登れば、散在する氷山を避けて通れる道筋が見えるかもしれないとは思ってもみない、それと同じだ」とベルスキーは書いている。

「高反応の子どもを持つ親は非常に幸運だ。なぜなら、子育てに手間ひまをかければ、かけただけ報われるからだ。

わが子は逆境に弱いのではなく、よくも悪くも影響されやすいと考えるべきだ」とベルスキーは言う。

彼は高反応の子どもに対して、親はどんな態度で接すれば理想的かを雄弁に語った。

子どもの気持ちを慮り、個性を尊重すること。

ことさら厳しくしたり敵対したりはしないが、温かくしっかりと要望を伝えること。

好奇心を育て、学業を奨励し、自分の満足を後回しにしたり自分をコントロールしたりする気持ちを育むこと。

厳しすぎたり放任しすぎたりせず、一貫していること。

これらの助言は、すべての親にとって非常に参考になるが、とくに高反応の子どもを育てる親にとっては欠かせない(もし、わが子は高反応な子どもだとあなたが考えているのなら、ほかにどんなことができるだろうかと思っていることだろう。)

だが、ランの花タイプの子どもでも逆境に抵抗できるとベルスキーは言う。

たとえば両親の離婚を考えてみよう。

一般に、親の離婚はこのタイプの子どもをその他の子どもよりも混乱させる。

「もし両親が激しく口論すれば、一番苦しむのは板挟みになってしまう子ども」なのだ。

だが、離婚するにしても、両親が良好な関係を維持して、子どもが心理的に必要としている栄養素を与えられれば、ランの花タイプの子どもでも逆境を切り抜けられる。

まったく問題のない子ども時代を過ごせる人はまずいないので、たいていの人は、これはもっともな意見だと認めるだろう。

自分がどんな人間で、この先どんな人間になりたいかを考えるとき、誰もが望むことがもうひとつある。

私たちは自分の運命を築き上げる自由を望んでいる。

自分が持っている気質のよい部分を生かして、さらに向上させるとともに、スピーチ恐怖症のような悪い部分を捨てたいと望んでいる。

生まれつきの気質に加えて、子ども時代の体験の運不運を超えて、大人として自己を形づくり、自分が望む人生を生きられると信じたいのだ。